VR(Virtual Reality:仮想現実)ゴーグルを装着した医師が、
目の前の空間に浮かぶ患者の3D臓器モデルと手術計画を参照しながら手術をする──。
医療現場の最前線に最先端テクノロジーを導入することで、
医師不足や医療の地域格差などの課題解決に挑み続けているのは、
帝京大学冲永総合研究所 Innovation Labの杉本真樹教授。
現役の外科医として臨床現場に立ちながら、
研究成果を少しでも早く社会実装しようと自らスタートアップ企業を立ち上げた。
医師、起業家、研究開発者、教育者という視点をもつ杉本教授は、どのように医療の未来を切り拓こうとしているのか。
疲弊した医師の現状に危機感
デジタル技術で医療を最適化
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
手術室でゴーグルを装着した外科医たちが手術を執刀している。ゴーグルをしていない人には普通の手術風景のように見えるが、外科医たちの目の前には手術している患者の病変と臓器の3Dモデルが浮かんで見えている。医師たちは空中に浮かぶ腫瘍や血管などの3Dモデルを掴んで回転させて、臓器の裏側にある血管などを確認しながら手術を進めていく。
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まるでSF映画のようだが、こんな光景がすでに現実になっている。手術をしている外科医の杉本教授は、この医療用VRソフトウエアを開発するスタートアップ企業の創業者で代表取締役CEOでもある。杉本教授がVR導入を本格的に考えるきっかけとなったのは、2004年から勤務していた帝京大学ちば総合医療センターでのこと。地方の病院にいる医師たちは多忙を極めており、疲弊した現場を見て危機感を抱いた。
当時は内視鏡手術が全国的に普及しはじめ、患者さんの身体的負担を少なくする低侵襲手術として注目されていた。このような最先端の医療技術は都市部の大病院では優先的に導入されていたが、地方の医師たちには最新技術のアップデートに触れる機会がない。しかも、毎日押し寄せる患者の対応で手一杯で、機器のある病院に行って技術を習得するほどの時間的余裕もなかった。
「気持ちに余裕がないので、医師たちのモチベーションも下がってしまっていたことが一番の問題でした。最先端技術を導入することで医師の業務を効率化し、やりがいを取り戻してもらいたかった」と、杉本教授は当時を振り返る。
自らプログラム医療機器を開発、市販化
VR技術をクラウドから容易に利用可能に
そこで取り組んだことが、診断画像の3次元データ化だった。個々の患者の病変や臓器を3次元データ化すれば、手術中の腫瘍や血管の“奥行き”を捉えられるようになる。杉本教授が専門とする肝臓胆道、膵臓、消化器外科は、手術中の奥行き情報が特に重要になり、臓器や周囲の組織の中には血管などが複雑に走行している。それらが絡み合う立体構造は個人差が大きく、特に癌の広がりなどは患者個別に全く異なっている。
「患者さん本人の3D画像をカーナビのように参照しながら手術できれば、臓器の裏側や切除すべき部位もわかり、血管などの損傷を事前に回避し、的確な手術計画の再現ができます。当時、市販化医用画像の3D化ソフトでも、CT画像を3次元のデジタルデータとして自分のノートパソコンで表示できるとわかり、執刀する手術中に使い始めました。それを知ったほかの外科医たちから『自分たちも使いたい』という声が相次ぎ、そこから病院内に広がっていきました。手術が効率化されることで仲間の外科医たちのモチベーションも上がったのが自分のやりがいにも繋がりました」(杉本教授)
しかし次第に3次元データをパソコン画面に表示しただけでは、臓器や病変の立体関係の理解が不十分で、より本来の解剖を立体空間的に理解したいと考え、VRの技術を研究した結果、高価な専用機器ではなく、ハードウエアには安価で普及しやすい市販製品を使い、自身はソフトウエア開発に注力し、多くの外科医を助けることを考えた。そうしてできあがったのが「Holoeyes MD」だ。
Holoeyes MD
ネットワークを介してアクセスすることでアプリを利用できるSaaS(Software as a Service)という形のサービスで、CTやMRIなどの3D画像から作成したデータをクラウド上にアップロードすると5分後にはVR空間で臓器の立体モデルを確認できる。VRゴーグルには手の動きを捉えるセンサーが搭載され、手や指の動きを検出して生成されたモデルを回転させたり、メニュー画面から輪切り画像を表示させたりすることもできる。手術中の清潔な術野ではマウス操作ができないが、VRゴーグルならば滅菌グローブをした手でも3次元モデルを自由に操作することが可能だ。
看護師からエンジニアに転身
革新的な技術開発で医療者と患者を助ける
杉本教授は2016年にHoloeyes株式会社を設立。「Holoeyes MD」は2020年に医療機器として認証を受け、多くの医療機関で使われるようになった。このサービスには、ネットワークでつながった複数のユーザー(外科医)が同じ3Dモデルデータを閲覧して手技の共有やカンファレンスを行う「Holoeyes VS」というオプション機能も開発した。これにより、暗黙知とされてきたベテランの動きや視線などを自分の体で重ねることで、実際の手術手技をリアルかつ効率的に学べるようになった。
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さらに、ベテラン医師の手術での手の動きや解説音声をクラウド上に記録し、スマートフォンと100均の簡易VRゴーグルを通じて追体験する教育用アプリ「Holoeyes Edu」を提供し、医学生や看護学生など医学教育の現場でも活用されている。
冲永総合研究所 Innovation Labは、Holoeyesをはじめ多くの企業との共同研究や産官学連携を進めてきた。新たな技術の研究開発に取り組んでいるのがInnovation Labの末吉巧弥助教だ。末吉助教はもともと手術室配属の看護師で、新人看護師の頃に杉本教授と出会っていた。
「中堅看護師として後輩の指導をするようになったとき、従来通りのマニュアルの限界を感じました。動画の教材もありましたが、新人にはなかなか伝わりません。そんなときに自分が新人だったときに手術室で目にした杉本先生のVRによる手術支援を思い出し、看護師のかたわら専門学校に通ってVRのソフトウエア開発を学びました」(末吉助教)
その後、思い切って看護師を辞め、帝京大学で杉本教授とともに革新的な技術の開発に取り組んできた。杉本教授も「研究成果を海外の学会で発表するなど、この技術の発展に欠かせない戦力です」と太鼓判を押す。
「看護師として一人ひとりの患者さんと向き合ってきましたが、今はエンジニアとして医療従事者を助ける立場になりました。そうすることで医師たちを助け、結果的により多くの患者さんを助けられるようになりました」(末吉助教)
医療や教育の可能性を広げる
空間コンピューティング
VRゴーグルと3Dホログラムにより近未来的な手術室が実現しつつあるが、杉本教授はさらに先を見据えている。まずは現在60施設ほどで使われているこのテクノロジーを、もっと多くの医療施設で使えるようにすること。
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「この技術の良さは、一度でも体験すればその素晴らしさを実感できます。一方で、外科医は職人気質なところがあり、後輩は先輩と同じように苦労を重ねて技をみがくのが伝統というような側面もあります。私はその認識から変えていきたい。このようなテクノロジーを通じて、ベテランと若手が学び合う環境をつくることもできるはずです」(杉本教授)
VRやAR(Augmented Reality:拡張現実)を含む物理空間とデジタル情報を統合し、インタラクティブな体験を可能にする技術を「空間コンピューティング(Spatial Computing)」という。現実世界とデジタルコンテンツをシームレスに結びつけるこの技術を活用して、医療や医学教育の可能性をさらに広げ、最近ではVR技術に機械学習やAIを組み込んだ診断システムの研究も推進している。

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ただ、あくまでも医療の当事者である患者も医師も、ともに人間であるということを忘れてはいけないと杉本教授は強調する。「医療現場に立ち続けることで、解決したい課題が理解でき、それを解決するために革新的な技術をできるだけ早く社会実装し、新しい社会的価値を創造し続けたい。このラボは英語名称“Innovation Lab, Okinaga Research Institute”の頭文字から愛称を「ILORI」としました。日本古来の”囲炉裏”のように、人が集い、アイデアが生まれる、そんなオープンな拠点でありたいと思っています」(杉本教授)
大学の研究機関には基礎研究によりサイエンスの裾野を広げるという使命があるが、「イノベーション」という言葉を冠したこのラボでは社会実装を重視している。そのためにはスピード感も大事だという杉本教授。常にトップスピードで、時代の少し先を走り続けている。
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